志村貴子 - 放浪息子
とうとう完結してしまった。
残念だなぁと思う。
「もっと続きを読みたかった」という意味でも、「この終わり方でいいのか」という意味でも。
最初私は、これは、男の子になりたい女の子と、女の子になりたい男の子の物語だと思っていた。
けれど、そうではなかった。
女であることが嫌な女の子と、女になりたくなった男の子の物語なのである。
重要なのは、「女であること」への拘りだ。
「女らしくあること」「可愛くあること」に対する拒否感が、高槻よしのを「男になりたい」と思わせた。
しかしそれは、(男への)憧れではなく、(女への)反発である。
彼女は次第に女である自分の性に馴染み、折り合いを付けていく。
一方、二鳥修一は、「女らしくあること」「可愛くあること」に憧れを持ち、それを最後まで捨てられない。
女であることこそが特殊な意味を持つ。
私たちの社会は、そういう社会である。
しかし同時に、男っぽい女であっても、大きな支障は無い。
だが、女っぽい男は、未だ特殊に見られる。
「女らしくあること」「可愛くあること」が特殊な意味を持つ社会だからだ。
人から鑑賞され、容姿を磨けば報われる。
高槻よしのの反発は、そういう社会への反発でもあったと思う。
そういう社会を嫌悪したところから、彼女の物語は始まっている。
そして、彼女がそのルールから外れても支障が無い事を学び、そのルールへの嫌悪が消えるにつれ、彼女が社会に馴染んでいくのは時間の問題でしかなかった。
そして一方、二鳥修一は、鑑賞される側の快感と、鑑賞する側の快感、両方を持つ。
彼の物語は、快感から始まったから、快感を諦めることができないのだ。
私は最初に「この終わり方でいいのか」と書いた。
しかし、この終わり方を本当に残念と思っているわけではない。
物語が進むにつれ、二鳥修一の物語にハッピーエンドを用意することの難しさは、強く意識していた。
だから、ハッピーエンドではない終わり方を、少しでも先延ばしにしてほしかった。
だから、この終わり方は、まだ少し残念ではあるものの、決して悪い終わり方ではない。
むしろ、アンハッピーエンドを回避していることを有難いと思う。
物語の限界を、志村はきちんと悟っているのだ。
二鳥修一は、周囲に素晴らしい友を多数得ている。
そのことに強く感謝したいと、私は思う。