タモリ - 教養講座“日本ジャズ界の変遷”
かつて、タモリは異端の天才であった。
「インチキ外国語芸」「イグアナ芸」「中洲産業大学教授」「ハナモゲラ」「全日本冷し中華愛好会」など、あまりに特殊な芸風にキワモノ芸人扱いされていたし、彼は絶対に昼間のTV番組向けではないと見られていた。
ところが、昼の番組の司会をやらせてみたら、これがはまってしまう。
はまり過ぎてしまい、結局31年半も司会をやってしまった。
もちろん「笑っていいとも」のことである。
これは「生放送バラエティー番組 単独司会最多記録」として、ギネス記録に認定されているそうだ。
けれど「いいとも」の成功は、ファンにとって、必ずしも嬉しいだけではなかった。
彼はそれまでの「危険なネタ」を、事実上、封印してしまったからである。
私もまた、「いいとも」での彼の成功を喜びつつも、次第に彼から離れてしまった一人である。
いや、私から離れたわけではないだろう。
彼が、かつての彼から、距離を置いてしまったのだ。
もっとも、「タモリの危険なネタ」を愛する人はあまりに多かったから、深夜の放送ではそうした色をかなり残していたし、まれに特別枠で、そうしたネタを披露はしていた。
けれど、かつての芸を特別枠で披露はしても、この芸風を更に発展させることはなかったと思う。
タモリのデビューまでの逸話は実に面白い。
単なる素人が山下洋輔の飲み会に混ざり、大ウケし、その後ファンを増やしていき、最終的には赤塚不二夫が自宅を提供し、生活費も遊び代も出すからと東京に引き止め、皆から懇願されてデビューに至るのである。
その破天荒なストーリーに、知らない人は「盛っているのでは」と思うだろうが、それはデビュー当時から知られたエピソードであり、かつて彼のファンであった者なら誰もが知っている話である。
今ではwikipediaにも詳しく記述されている。
今にして思えば、彼の昼の番組の成功は、半ば「当然であった」のかもしれない。
彼のどの芸も、表層的にはバカバカしく見えても、深い知性や鋭い観察眼がなければ、存在し得ない内容ばかりなのである。
タモリはデビュー初期に5枚のアルバムを出している。
これらには彼の話芸の凄さが凝縮されている。
そのうち4枚はCDになっているが、1枚は未だCD化されていない。
「日本ジャズ界の変遷」は、1stアルバム「タモリ」に収録された。
最近、深夜枠のTV番組「ヨルタモリ」でも披露していた。
彼は1945年生まれだから、1977年に出た1stアルバム当時、彼は32歳だったことになる。
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